仏教と環境問題

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フォレストベンチ研究会 理事 輪王寺住職 日置道隆

仏教には、『無我』と『縁起』の教えが根本にあります。私は、この根本概念には、環境問題をどのようにとらえるべきかのヒントがあると思っています。私たちは、よけいなことを考えないという意味で「無我の境地で」と使います。では、仏教思想の無我とはどのような状態なのでしょう。無我と聞くと、多くの人が、自分をなくさなければならないのか、と考えます。しかし、無我はけっして自分をなくすことではありません。自然の道理である諸行無常であり、永遠不変の自我はない、ということです。おぎゃー、と生まれた赤ん坊に自我はありません。成長とともに自我が成長し、年を経るとともに自我が薄れ死んでいくと単純に考えてもいいと思いますし、その方がなんとなく理解しやすいでしょう。永遠不変の自我はないけれども、そこにはかけがえのない自分はいるのです。ではどこにいるのかというと、つながりの中にいます。それが縁起の世界です。

私たち日本人は、普段何気なく「縁起がいい、悪い」と言います。そして、そこになんらかの因果関係を感じ取っているのです。すべての現象には、原因があって結果があります。これが因果関係ですが、仏教では、原因と結果の間に縁があると説きます。なにかの出来事が起こるためには原因が必ずあるものですが、原因だけでは起こりえません。そこには縁が必要です。どんなに才能のある人でも、チャンスなり巡り合わせ、つまり縁がなければ、世の中では成功できません。逆に、チャンスや巡りあわせに恵まれたとしても、本人に実力がなければ成功できないでしょう。かように因と縁の両方があってはじめて現象(果)が起きるのです。あらゆるものは、つながりの中にあって初めて存在することが見えてきます。私は私自身で成り立つものではない、つまり本体はない、私はまわりに支えられてこそ存在しえるのです。

これが関係性の中で成り立つ仏教の世界観です。この世界観を基軸にしながら人間としてのあり方を説いたのが仏教ということになります。生命は常に、植物・動物・微生物がそれぞれに生産者・消費者・分解者(還元)としての役割を果たしながら生態系を健全に廻っています。これが地球本来の姿のはずです。この世界観を科学的に実証しようと試みているのが生態学です。生態学は、生物と環境の間の相互作用を扱う学問分野です。生物は環境に影響を与え、環境は生物に影響を与えます。

700万年前にアフリカで人類が誕生しました。初期人類は森つまり自然の中で猛獣におびえながら慎ましく生活していたのです。幾たびの変遷そして進化を遂げながら、直立二足歩行をおぼえ、道具を使うようになり、10万年ほど前より音声言語を発明しました(言語学者ジョハンナ・ニコールズの説 カリフォルニア大学バークレー校)。私は、この言葉の発明が人間の作為的な欲望の始まりと考えています。言葉は物事を抽象化することに役立ちます。すると、人間は物事を比較し、考えるということをおぼえたと推測できます。物事を比較するとそこに差別化が発生します。そこに欲望が出てくるのです。最初は極く少ない欲であったものが、1万年前の農業の発明により森を破壊し、そこに定住することをおぼえました。そして土地や物を所有する欲望へと膨らんでしまったのでしょう。それから、人口の増加により領土の拡張を行い、土地の奪い合いが始まり、戦争へと突き進むのです。欲望とは不思議なもので、一つの欲をかなえると、もっともっとと次から次へと膨らんでいく性質を持っています。つまり文明が進めば進むほど欲望は肥大化していきました。その欲望の根源にあるのが「我」なのです。

自然は本来すべてが常につながり合いながら循環しています。この循環に楔を打ち、止めようとする意識が我も我もという「我」なのです。持続可能な循環型社会を目指しましょう、とはよく聞く言葉ですが、環境問題を引き起こす私たちの行動の根本は、私たちの心のあり方からきていることを、私たちは知らなければなりません。

コンクリート擁壁は、すべての循環(水循環・窒素循環 etc)を無視し、単に斜面を押さえることによって安全を図ろうとするものです。かたやフォレストベンチ工法は、すべての循環を生かしながらも安全を図り、自然と共生することによって私たちも生き延びようという工法なのです。そもそもの発想の原点が違うのです。これから私たちが健全に生きるために、人間のみが生き残ろうとするのか、自然と上手くつき合いながら生きるのかを、深く考えるべきでしょう。